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寺脇先生の教育論≪寺脇研先生の教育論≫【第33回】「入試の公平」とはなんだろうか

少し前の話にはなりますが,2011年に京都大学をはじめ複数の大学で入試問題が試験時間中に漏れてネット上で回答を募集されたという騒ぎがありました。

入試におけるIT技術を使った不正事件は,日本以外にも韓国や中国のように一斉学力試験を主体とする国々で,やはり起きています。もちろん東アジア圏以外にもフランスのバカロレアやドイツのアドビューアなど一斉式の筆記試験を重視する国々はありますが,そこで出題されるのは論述式の解答を要求する「正解のない問題」であり,手っ取り早くカンニングをするわけにはいかないものです。英文を和訳せよ,とか数式問題を解け,とかの正解至上主義の問題を一斉試験で行うと常にカンニングの誘惑はつきまといます。

 

巨大大学ではきめ細かい入試が難しいという事情もあるでしょうが,これらの大学は同一筆記問題の一斉入試というやり方を変えようとしません。それは長らく日本の受験を支配してきた「公平神話」の産物でしょう。入試は公平でなければならない,ということです。カンニングや情実を許さない公正はもちろんの大前提として,皆が同じ正解をめざす同一問題同一解答の筆記試験が絶対視されるのは公平を重要視するからです。だからバカロレアのような「正解のない問題」を採点するとなると採点者の主観が入る,ゆえに公平でないという論理が幅をきかせてきたのです。

公平は,入試が限られた椅子を争うため受験者を振るい落とすシステムとして機能していた時代の発想でしょう。現在の入試は,学生にとっては自分の学習が最も適切に行える大学を選ぶ過程であり,大学にとってはそこが提供する学習にぴったり合う意欲・能力をもった学生を選ぶ道具ではないでしょうか。大学と入学者とが幸福にマッチングするためのものにしていかねばなりません。

 

ふるい落とすための公平な入試に固執した結果が,IT技術の前で無力化し肝心の公正を危うくしているのだから皮肉と言うしかありません。有名大学は,いつまで公平神話に支配され続けるのでしょうか。また入試を天下の一大事のように神聖視するのでしょうか。

わたしは,入試が必ずしも公平である必要はないと思っています。公正でさえあれば,公平神話に惑わされることなく大学側,教師側の主観を大きく取り入れた選抜であっていいでしょう。自分の大学で自分が教える学生を,自分の主観で選んでどこが悪いのでしょうか,学生の側も,自分を教えてくれる教師が自分を選んでくれたことに深い意義を感じることもあると思います。