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寺脇先生の教育論≪寺脇研先生の教育論≫【第28回】「教育の義務」から「学習する権利」へ

 憲法26条は「教育を受ける権利」「教育の義務」を定めていますが,これを「学習する

権利」「学習を保障する義務」と改めるべきだと思っています。

 

 憲法が作られた戦後間もない時期は,第26条(教育を受ける権利)の下,小学校こそ全員が

入っていても,中学以上は一部の人間しか入れなかった戦前の状況から,中学校を全入にし,

高等学校にもほぼ全員が入れるように量的な拡大が優先されてきました。

 1970年代半ばになると,国民が望むのは「量」から「質」へと変化してきました。

量的な整備がある程度できた次には,どんな教育を受けさせたいか=どんな学習をしたいか,

が重要になってきます。つまり国民を教育するという考え方から,国民が学習する(国民が

教育する対象という客体から,行動する主体になっているところに注目してほしいです),

それを教育という形でサポートするというのが,「教育」から「学習」への発想転換なのです。

 

 そうして国民の意識が「学習」本位を求めているにもかかわらず「教育」の方が前面に出てい

ると,おかしなことになります。90年代の半ばに至るまで,登校の子供やその親を苦しめてき

たのは,義務教育は必ず受けなければならない,すなわち学校へ必ず行かなければならないと

いう世間からの圧力でした。いうまでもなくこれは全くの誤解であり,義務教育とは「教育を

受けさせる義務」をいうのであって「教育を受ける義務」ではありません。

 憲法26条を「教育を受ける権利」ではなく,「学習する権利」とはっきりさせておけば,この

ような誤解が生じる恐れはないでしょう。どこで,どんな形で学習するかは権利を持つ国民

自身が選べるはずです。だからこそ「教育を受ける義務」論が誤解であることを文部省(当時)

も認め,不登校は悪くないという見解を示して無理に登校を促すやりかたを改めたのです。

 

 国だろうが教師だろうが,国民を思い通りに教育する権利なんかありません。憲法が保障して

いるのは,「国民が教育を受ける権利」なのです。

それが「国民を教育する権利」にすり替わってしまったのは「教育」という言葉を使っているが

ゆえでしょう。